生きる意味

人はなぜ生きるのか? なぜ、という言葉には、目的(何のため)、価値、意義、仕組み、いろいろな面があります。

<川>

比較として、川について考えてみます。川が流れる仕組みは何でしょう? 地形に高低差があり、太陽のエネルギーで水が循環し、それで川が流れます。

川が流れる意義はなんでしょう?川は何を目的に流れているのでしょう? 「川が流れる」のは単なる自然現象の一つです川はただ流れているだけです。 意義や目的について考えること自体ができません。意義、目的という概念自体が成り立ちません。 

川はどんな気持ちで流れているのでしょう? 川に気持ちはありません。 川はただ淡々と流れているだけです。

<人>

人が生きる仕組みは何でしょう? ビッグバンで宇宙が始まり、精子と卵子が結合して誕生し、老化し、死にます。「人が生まれ、生き、死ぬ」のも単に自然現象の一つにすぎません。

人が生きる意義、生きる目的は、川と同じことです。意義目的もありません。人はただ生きているだけです。これは、「生きること自体に何か本来的な意義があって、だから生きている」と言うわけではないということです。また「生きること自体に何か本来的な目的があって、そのために生きている」と言うわけではないということです。

生きることの本来的な意義、生きることの本来的な目的について考えること自体ができず、概念自体が成り立ちません

(注:何かのきっかけで「生きていてよかった」と意義感じることはあります。何かの目的を自分で持つことはできます。

<価値>

川は、人の生活の役に立ちます。役に立つとは、それを利用する側(人)から見た評価です。つまり利用価値のことです。

では、利用者を抜きにして、そのもの自体がもつ本来的な価値について考えてみましょう。例えば、ダイヤモンドはどうでしょう? ダイヤモンドは本来的な価値がありそうです。

人からみたらダイヤモンドは価値があります。でも、ライオンからみたらダイヤモンドは価値はありません。人やライオンを抜きにして、ダイヤモンド自体がもつ本来的な価値とはなんでしょう? 考えに行き詰ってしまいます。価値とは、あくまで利用者にとっての評価(=利用価値)です。本来的な価値、という概念自体が成り立ちません

生きる価値、という言葉もよくつかわれますが、やはりこれも、他人から見た利用価値のことです。他人を抜きにした、その人自身がもつ本来的な価値というものは概念自体が成り立ちません。

(注:「自分生きていていいんだ」と価値を自分で感じることはあります。この感情は自己肯定感と呼ばれるものです。(自己肯定感については こちら ))

<ルール>

人が生きる時のルールも、本来的なルールはありません。ルールは何かの目的があって定められるものです。(例えば、交通を円滑にするという目的のために、「信号を守らなければならない」というルールが定められます。)生きることの本来的な目的は概念自体が成り立ちません。だから、生きることの本来的なルール概念自体が成り立ちません

<悩む>

生きることについて、意義、目的、価値、ルールなどは概念からして存在しないのですから、ただ淡々と生きたら良さそうなものです。ところが、人は悩みます。人は本能して「自分の生きる意義、目的、価値、ルールを見つけたい」という気持ちがあります。

というのも、人は「自然現象や様々なものごとについて理解したい」という本能を持っています。(この本能を持っていたからこそ、科学や技術が発展して人類は大繁栄したのです。)自分自身のことについても、生きる意義目的価値ルールといったものを見つけたいという本能があります。これが悩みになります。

しかし、 意義、目的、価値、ルールは、概念からして存在しません。どんなに考えても本来的な答えは得られません。

一方、人は「理解したい」という本能が強く、理解できないままでいることは、大きな不快・悩みとなります。そこで、その不快・悩みから逃れるため「無理やり答えを見い出してしまう」のが人の本能です。そして、人は「こうであって欲しいと願ういうことを信じる」という本能もあります。

結局、生きることの意義、目的、価値、ルールについて、勝手にこうであって欲しい答え見い出しそれを信じるのが、人の本能です。生きることの意義、目的、価値、ルールは、人がそれぞれに、勝手に信じるものです。

<信じる>

人が生きることについて、意義、目的、価値、ルールと似た意味合いの言葉で、アイデンティティ、行動規範、軸、芯、居場所、生きがい、生き、といった言葉もあります。本サイトでは、これらを含めて全てひとまとめにして "在り方"(ありかた)と呼ぶことにします。 

"在り方"  は、本来的なものではなく、人がそれぞれに勝手に見い出して信じるだけのものです。しかし、これは本能によるものなので、人にとって大切なものです。これを見失うと、生きていくことが困難になることすらあります。むしろ、人が生きていくためには、 "在り方を、勝手に見い出して信じる必要があります

例えば、子供の成長が生きがい(=意義、目的)という人は多いと思います。それが生きがいだと信じることができます。その生きがいによって生きていける人が多いのです。

<好き>

何を信じるにせよ、何かを信じるというのは簡単なことではありません。詳しく理屈を説明されからといって、信じられるとわけではありません。熱く熱心に説明されたからといって、信じられるわけではありません。また、"在り方"  は本来的なものではないのに、それを、勝手に見出して信じるというのは、簡単なことではありません。

信じることの土台になるのは、好きという気持ちです。理屈を説明されたら好きになるわけではなく、熱心に説明されたら好きになるわけではありません。好きは、自分の心の内側から勝手に湧き出てきた気持ちです。例えば、子供の成長が生きがい("在り方")なのは、子供が好きだからです。

ここで注意が必要です。好き本来的なものではありません。これを好きになるのが正しいとか、あれを好きにならないのは間違っているとかはありません。子供を好きなのは本能による感情ですが、本来的なものではありません。子供を好きでなくても間違っているわけではありません

好きになるのは、子供だけでなく、芸術、学問、スポーツ、料理、ふるさと、仕事、遊び、仲間、自分、なんでもありです。好きなものは一つでなくてもかまいません。他人と違ってもかまいません。途中から変わってもかまいません。

自分勝手に湧き出てきた好きという気持ちを大切にして、自分の "在り方勝手に見い出して信じのが人の本能です。"在り方"  は本来的なものではなく、概念からして存在しません。しかし好きという気持ちは勝手に湧き出てくる、自分の中に確かに存在するものです。好きという気持ちを大切にしてください。

<まだ>

好きなものがない人は、まだ好きなものに出会っていないだけかもしれません。世の中や世界には、自分が見たことも聞いたこともないことが、無限にあります。ネットで見てつまらなそうでも、実際にやってみたら楽しいこともよくあります。もしかしたら、それは外国にあるかもしれませんが、まだ、外国語を習っていなければ出会う機会がありません。今の自分がすべてではありません。まだこれから成長して、まだこれから出会うことがたくさんあります。何か行動を初めてみてください。これから初めて出会うものの中に、好きという気持ちが勝手に湧き出てくるものがきっと見つかります。

子供の時に好きだったことが、一生続くことは少ないかもしれません。成長とともに、もっと好きなことが出てくることも多いです。大人になって初めて好きなことが見つかることもあります。人生経験を積んで初めて好きになれるものがあるかもしれません。一生かけて向き合うのが、好きという気持ちです。

<社会>

野生動物の中には、群れずに単独行動をする動物がいます(例:トラ、ヒョウ、クマなど)。一方、人は群れる動物です。人の体は小さく、力も弱いので、自然界で生き残るためには、群れる必要がありました。群れる本能があったから、人は生き残ることができたのです。現代でも、人は集団を作って生きています。人の結びつきが強い集団が社会です。人は本能的に上手に群れることができるので、一人でいるよりも社会に属する方が有利ですし、特に意識することなく社会に属しています。

社会にはルールがあります。このルールは本来的なものではありません。社会のルールは、その社会を構成する一人ひとりが勝手に信じている "在り方" の集約です。社会のルールは、社会を円滑に動かすことが目的です。人は、社会のルールに従うことで、社会のメリットを享受することができます。

しかし、時として、自分の "在り方社会のルールとが相容れないことがあります。社会のルールは、社会を構成している他人の "在り方" です。本来的なルールではないので、妄信する必要はありません。自分の "在り方" が間違っていると考える必要はありません。自分の在り方を、無理に社会のルール(=他人の "在り方" )に合わせる必要はありません。自分の "在り方" と、社会のルールとで、どちらが正しいとか、どちらが間違っているとか、どちらが良いとか、どちらがだめ(悪い)とか、そういうのはありません。

例えば、社会のルールでは、子供は学校に行くことになっています。学校に行けばいろいろ学べて人生が豊かになる場合が多いです。しかし、学校に行くことは本来的なルールではないのですから、いじめなどで、学校に行くのが辛いのならば、学校に行く必要はありません。

<普通、常識>

"普通"、"常識" という言葉は、社会のルールと同じものです。強制力がすこし違うだけです。"普通"、"常識" は、社会を構成している他人の "在り方" です。("普通"、"常識" は、社会に関わるときに、有利ではありますが、)"普通"、"常識" つまり他人の "在り方" 本来的なルールではありません。自分の "在り方" 他人の "在り方" とで、どちらが正しいとか、どちらが間違っているとか、どちらが良いとか、どちらがだめ(悪い)とか、そういうのはありません。

有利/不利と、良い/悪いは、まったく別の話です。

<悩み>

人は、生まれた時からずっと群れに属しています。生まれてからしばらくは家族に属しています。成長過程では学校に属しています。就職してからは社会に属しています。ご近所にも属しています。地域にも属しています。国にも属しています。

人は、本能的に群れる生き物なので、自分がこれらの群れの一員だということを、当たり前すぎて意識していません。(人は、空気を吸って生きているということを、当たり前すぎて普段は意識していないのと同じです)

家庭や学校や社会やご近所や地域や国に属していることを、自分自身のように感じています。社会のルールは、自分自身のルールだと感じています。




<自由>

は、本能的に社会に属していて、社会のルールに従うことで社会のメリットを享受していますが、社会のルールに縛られているとも言えます。自由とは、社会のルール(=他人の "在り方" )ではなく、自分の "在り方" に従うことです。

自分の "在り方" に従ったときに、社会のメリットを享受できなくなるかどうかは、ケースバイケースです。その内容にもよりますし、同じ内容でも時代や環境によっても異なります。自分の "在り方" に従っても、周りの人が困らなければ、引き続き社会のメリットを享受できます。また、時代が変わって、多くの人が自分の "在り方" に従いたいと考えるようになった事柄は、それはもう社会のルールではなくなっています。

もし、自分の "在り方" に従ったとき社会のメリットを享受できなくなる事柄なら、自分の "在り方"に従うか、社会のルールに従うか、を選択します。どちらも本来的なものではないので、どちらでも構いません。

<過去は諦める>

過去は諦める。考えるのは今日をどうすごすかです。

過去は、どうやっても変わりません。過去のことをいくら思い悩んでも、過去は変わりません。過去は諦めるしかありません。

考えるのは、今日をどう過ごすかです。過去の失敗のから教訓を見つけ、教訓を踏まえ、将来の目標を見据えて今日をどう過ごすかです。

自分の "在り方" は 、自分の目的や、自分の希望が含まれます。自分の力や能力も含まれます。自分の希望は達成できないこともあります。力及ばすに失敗することもあります。でも、それで問題はありません。"在り方" は、本来的なものではないのですから、正しいとか間違っているとか、良いとかだめ(悪い)とか、概念からして存在しないので、考えることができません。

例えば、受験で不合格になることがあります。でもそれは良いとかだめ(悪い)とか考えるようなことではありません。それはただの結果です。達成できなかったら、諦めればよいのです。そして、諦めたら、しっかり原因を分析し、新しい "在り方"  を模索すればよいのです。翌年再チャレンジしてもよいですし、別の道を選んでもよいです。

例えば、「楽しい学校生活を送りたい」という望みがあっても、いじめなどによって達成できないことがあります。「楽しい学校生活を送れない」のは悔しく感じますが、「自分が悪いから」とか「うまくなじめない自分はだめだ」とか考えるようなことではありません。それはただの結果です。達成できなかったら、諦めればよいのです。そして、諦めたら、新しい "在り方"  を模索すればよいのです。転校したり、卒業を待ったりしてもよいですし、だれかに相談して解決を図ってよいです。(いじめの原因の分析は、人間の本能や環境など多くの要因があるので、かなり難しいです。それらについて詳しい人に相談することをお勧めします。

<死後>

人の "在り方" は、人がそれぞれに勝手に見い出して信じるだけのものです。そして、死んだら、肉体的にも、精神的にも、何も残りません。

でも、あなたが生きてきたという事実は無くなりません。そして、あなたがしてきた行動は、誰かが見ていて、その人は何かを感じ、その人に影響を与えています。あなたの行動の源となった考えや感情や思いが、誰かに伝わります。(ここでは、考え感情思いなどをまとめて想いと書くことにします)

例えば、あなたがサッカーが好きだったら、サッカーのすばらしさは、子どもに伝わります、そして孫やひ孫に...と受け継がれます。子孫だけではなく、友達や、SNSを見た人、など、あなたの行動を見た人は、あなたの想いを感じます。あなたの想いは受け継がれます。

あなたも、親や祖先やその他の多くの人の想いを受け取りながら成長しました。

初めに、「人が生まれ、生き、死ぬ」のは単なる自然現象で、人はただ生きているだけ、と書きましたが、人が生まれ、先人の想いを受けとり、生きて、死んで、後世に自分の想いが受け継がれていく」という自然現象です。人はただ生きているだけですが、想いが受け継がれていきます。

あなたの想いは、あなたの行動を見た人に伝わります。長生きした人は、その人の想いが、たくさんの人に受け継がれます。自ら、自分の想いが受け継がれるチャンスを、減らさないでください。

<本能>

人も動物なので、本能があり、本能にしたがって生きます。幸せになりたいと思うのは人の本能の一つです。人が幸せになりたいと思って生きることも自然現象です。(幸せについては こちら 、本能については こちら )

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生きることの目的全ての人に共通する、生きるということの普遍的な目的)はそもそも概念成り立ちませんが、「何かの目的を自分で持って生きる」ことはできます。「自分の生きる目的は〇〇だ」と自分で決心することはできます。できますというより、むしろ大切ですこれはつまり夢をもつということです。夢は幸せ自己肯定感につながるのでとても大切です夢の中身は人それぞれです。全ての人に共通する夢はありません。自分の夢を見つけてください。(夢については こちら

<自己肯定感>

自分の "在り方" や、自分想い受け継がれることは、自己肯定感の一つとなります。(自己肯定感については こちら

<苦しみ>

「人はなぜ生きるのか?」という問いをするときは、多くの場合「こんなにつらいのに」という言葉がつながります。(いじめについては こちら 、誹謗中傷については執筆中です)


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