愛とはなんでしょう。実は、愛の本質は難しくありません。

<本質>

鳥は卵を温めます。これは本能です。「温めるとひな鳥が生まれる。子孫を作らないと絶滅してしまう。だから卵を温めよう」と頭で理屈考えてこういう行動をしているわけではありません。卵を温めるのは、ひな鳥のための行動であり、親鳥には損な行動(その間は餌を取りに行けない)であるにも関わらず、卵を見るとなぜだか温めたくなってしまい、そのようにすると心地よいからです。(本能については こちら

この本能による行為は、愛と言えるでしょうか? 「本能による愛」と言ってもよいかもしれません。

ならば、本能によらない 利他行為で、見返りを求めず、そうすると心地よい行為が、です

結論を先に書いてしまいましたが、ひとつずつ確かめてみましょう。

愛は、他者のための行為(利他行為)です。

相手の為にならない行為なら、愛ではありません。

愛は、見返りを求めません

見返りをもとめたら、愛ではありません。それは自分のための行為です。

愛は、心地よく感じます

嫌々するのは、愛ではありません。

本能によるものは、「本能による愛」です。

本能によらないものが、(本当の)愛です。

愛の本質は分かりやすいです。自分の行為が愛なのか愛でないのか、自分ではわかります。 でも、他人の行為か愛なのか愛でないのかを判定することは難しいです。それは、その人は見返りを求めていないのか、その人は心地よいのか、分からないからです。だから愛は分かりづらいのです。

<愛されるために>

あなたはどんな人を愛しますか? あなたのことを愛してくれる人を、あなたは愛しますね。あなたが愛されたければ、あなたが愛することから始めればよいのです。情けは人の為ならず」という諺があります。この意味は、他人に情けをかけることは、その他人の為にしているのではない、巡りめぐって自分の為になる、という意味です。あなたが愛することを始めれば、巡りめぐって、あなたを愛する人が現れます

<練習>

人には、他人を愛する仕組みが備わっています。しかし、自分勝手な決めつけ目先の損得などが邪魔をしてうまく愛することができません。これらの邪魔が入らないように、経験を積むことが必要です。いわばトレーニングが必要です。そしてトレーニングをすれば他人を愛することができるようになります。愛の本質の一つずつトレーニングしていきます。

利他行為、見返りを求めない、心地よい、と、愛の要素がありますが、このなかで始めやすいのは利他行為です。利他行為は、内心の問題ではなく外に現れる行動なので、そのように行動すればよいだけです。心地よいは内心から生まれ出る感情なので少しトレーニングしづらいです。外形から内心に向かって順にトレーニングしていきます。

相手がしてほしいと思っていることが分からなれれば、利他行為はできません。そのために必要なことは、相手の気持ちをきちんと聞くことです。相手の気持ちを推測する能力を身につけることではありません。自分勝手に決めつけないということです。相手の気持ちをきちんと聞くクセをつけることが一つ目のトレーニングです。(相手の気持ちについては、執筆中です)

相手の気持ちをきちんと聞けば、利他行為をするのは難しくはありません。自分の負担にならない範囲で、ちょっとだけ相手の為に行動してください。でも、無理はしないでください。無理な時は「ごめんなさい。いまはちょっと無理です」と断ってください。無理をすると心地よくなることができません。

見返りを求めないようにしていても、ついつい、心のなかで見返りを期待してしまいがちです。ついつい目先の損得が気になります。うっかり見返りを期待してしまったことに気づいたら、「目先の損得は忘れよう」と思ってください。目先の損得にとらわれると、巡りめぐってくれません。

最後に心地よいです。相手の気持ちを聞く、利他行為をする、見返りを求めない、ができたらあと少しです。人は意識していない物は、そこにあっても、見えません(気づきません)。人には、他人を愛する仕組みが本能として備わっています(本能については こちら )。心地よい気持ちにならないのではなく、それに気づけていないのです。自分の心の中を見つめて、心地よい気持ちを探してください

<親切>

特定の相手だけを愛の対象にしようとすると、つい見返りを期待してしまいがちです。相手を選ばずにトレーニングしてください。見ず知らずの他人に対する利他行為であれば、見返りを期待することもありません。つまり他人に親切にするということです。

<恋愛>

とはいえ、自分の大切な人に愛を注ぎたいのも素直な気持ちでしょう。人も動物なので、有利な条件の相手子孫を残したいと感じます。これは当たり前の本能です。ですが、二人の間に愛が育まれなければ、長続きしません。大切な相手だからこそ、常に「見返りを期待していないか?」と自分に問いかけてください。「相手が自分のことを愛してくれる」ということを期待すること、つまり「自分のことを愛して欲しい」と期待することも、見返りを期待することです。付き合いだす前に「自分が愛しているのだから、相手も自分を愛して欲しい」と思うのは身勝手なわがままですが、付き合いだしてからもそれは変わりません。

<依存>

「相手が自分のことを愛してくれる」ことを根拠として、自己肯定感(もしくはプライド、自信、自尊心といったもの)を持つことは、愛ではありません。これは依存です。「相手が自分のことを愛してくれる」ことを期待するどころか、大前提としてしまっています。愛と依存は別のものです。

ひとたび相手が自分のことを愛してくれなくなると、自己肯定感の根拠がなくなってしまい、プライドが傷つけられ、憎しみに変わります。愛が憎しみに変わったのではありません。依存が憎しみに変わったのです。

<子供>

子供が生まれてしばらくは、本能的な愛で子供を育てます。子供の成長とともに(本当の)愛に変わっていきます。

子育てに関しては、特に依存に注意しなければなりません。子供が小さいうちは、相手(子)は自分(親)のことを愛してくれますし、相手(子)は自分(親)の期待に応えてくれます。でも子供も独立した一人の人間です。成長と共に親の期待する通りではなくなります。

「相手(子)が自分(親)のことを愛してくれる」「相手(子)が自分(親)の期待に応えてくれる」ことを根拠として、親が自己肯定感(もしくはプライド、自信、自尊心といったもの)を持つことは、愛ではありません。これは依存です。見返りを期待するどころか大前提としてしまっています。子育ての間は、親も子も、多かれ少なかれ依存状態になります。親離れ、子離れとは、依存の状態を脱することであり、(本当の)愛に変わることです。

<大切なこと>

愛は、本能によらない 利他行為で、見返りを求めず、そうすると心地よい行為ですが、その中でも、人はつい見返りを期待してしまいがちです。はじめ愛だったものが、見返りを期待してしまい、依存に変わることも多いです。大切なことは「見返りを期待していないか?」と常に自分に問いかけることです。


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